序章
闇はねっとりと纏わりつき、呼吸するたびに体の中へ入り込む。饐えた腐臭が肺を焼く。
いや、もはや焼かれる肺は無い。
胴体には暗い穴が穿たれ、腐臭はそこから発している。
臭気から逃れようと、身を捩る。
だが、四肢は太い鎖に押さえられ、壁に繋ぎとめられている為に、動く事はできない。
その壁には、なにやら見慣れない魔方陣が刻み付けられているのを、振り返り確認した訳でもないのに、知っている。
自分は、何時から此処に居るのだろう?
疑問はすぐに霧散する。
闇の臭気に焼かれて、何も考える事はできない。
もはや自分が何者なのかも、深い霧の向こうにあるようだ。
ただ、誰かが、自分を呼んでいたような気がする。
あれは誰だったのか?
自分は何と呼ばれていたのだろう?
思い出せるのは、鮮やかな緑。
輝く森の色?それとも輝石?
判らない。
だが、その色を思い出す時だけ、心が休まる。
ゆっくりと、目を閉じる。しかし安らぎは、ぞくりとする、激しい震えによって断ち切られた。
ひんやりとした感触が、足を伝う。
唇を噛み締め、這い登る感触の与える、淫蕩な痺れを意識から振り払う。
また、責め苦が始まるのかすかな含み笑いと共に、闇が形を成していく。
闇の腕はいたぶるように下肢を撫で上げ、その度に痙攣のような震えが走る。
胴体に穿たれた穴に、闇の手が差し込まれる。
毒々しい快感が、無いはずの心臓を揺さぶる。
内側から撫で上げられる、あり得ない感触が、延髄すらも溶かしていくようだ。
「くっ…」
堪らず、声が漏れる。
噛み切られた唇が、口中に血の味を広げていく。
鉄臭い苦味を唯一の頼りとして、快楽から意識を逃す。
これに負けるわけにはいかない。
決して、これに身を委ねたりはしない。
己の全てを失いながら、それでも、全てを奪おうとする闇に抗い続ける。
激痛にも似た、快楽の責め苦。
好きなだけ嬲ればいい。お前たちには渡さない。
脳裏に、再び鮮やかな緑が浮かぶ。
―――負けはしない…
1
「うっぁぁぁああああああ!!!」
絶頂の快感に、彼はたまらず声をあげた。
しかし、細い身体を抱きこみ、反り返る背に舌を這わせながら、後ろからその身体を貫く青年は、容赦なく腰を打ち付ける。
長い豪華な金髪が激しい動きに合わせて揺れ、汗ばむ肌に絡みつく。
肌がぶつかり合う音と、責め苦に耐えるようなくぐもった喘ぎ声が、薄暗い室内に響いていく。
「うっ……あっ。ああぁっ……くぅっ・・あっ」
床に敷かれた薄い布を握り締め、苦痛とも快楽とも判らないうめきを洩らす華奢な青年。
亜麻色の髪を揺らす彼は、本来受けるはずの無い場所からの快感に、身を捩る。
その下腹部は、己の放つ体液と、もう一人から注がれるものによって、ねっとりと濡れていた。
背を伝う汗を舐め取りながら、金髪の青年が己の目下にある彼の亜麻色の髪に、聊か乱暴に片手を差し込むと、指に髪を絡めながら、強く引く。
もう片方の手は、力加減も速度も変えずに扱き続け、小柄な身体は、更に弓なりに仰け反った。
「はうっ・・・」
自分が与える刺激へ敏感に反応する姿に、紺碧の瞳が、嗜虐的な光りを浮かべて細められる。
「そう・・・いい子だ・・・」
白い肌に紅い華を散らせ、深く浅く、更に激しく、果ての無い嵐のごとく攻め立て、追いつめられていく様は、男女の交合いよりも濃く、淫靡な姿に見える。
青年の手の中に捕らえられたままの陰茎が一層大きく脈打ち、再度絶頂を迎えかけているのが判り、堪えようと声を殺す彼の細い顎を掴まえて、更に仰け反らせる。
「堪えるな!私だけを感じ、私だけを思え!」
強い命令に、一瞬、翡翠の瞳が見開かれる。
虚ろに翳んでいたその目に、ほんの僅かな光がもどり、青年を見据える。それは明らかな拒絶。
彼の何もかもを手中にしているにもかかわらず、この一瞬が必ず首を擡げ、青年に甘美な愉悦と堪らない焦燥を同時に齎す。
豪奢な金髪を首を振って払い、青年は薄く笑う。
「放さないよ・・・」
呟くと、今までよりも更に激しい行為が、小柄な身体に叩きこまれ、亜麻色の髪が、汗とともに躍り上がった。
堪えきれず、彼が声を絞り出す。
「うぁ・・・ぁぁああああああ―――――――――――――――
――――――――――――ああああああああああああああああああ!!」
アイシュ・セリアンは、全身を仰け反らせ、声の限りに叫ぶ、自分の声で目を覚ました。
見慣れた天井はまだ薄暗く、カーテン越しの月光にぼんやり浮かび上がり、まだ朝は先らしい。
何も変わりの無い、住み慣れた我が家の自分の部屋である。
アイシュは安堵のため息をつくと、眠りながらきつく握り締めていた毛布を、白くなってしまった関節の軋みに耐えつつ、やっと離した。
暫くぼんやりしながら、痺れた手に感覚が戻るのを待つ。
悪夢の余韻で、まだ早鐘を打つ心臓と、寝汗をかいた体がじっとりと寝巻きや寝具を湿らせて、酷く居心地が悪かった。
手の痺れとともに身体の火照りが冷めてくると、湿った寝巻きとは明らかに違う質の水気が、股間に纏わり着いているのに気が尽き、アイシュは赤面して起き上がった。
悪夢を見て、夢精する。こんなことがここ半年ばかり続いている。
バツが悪そうに頬を染めながら、その双眸から二筋雫が頬を伝う。
「―――ふっ・・・くっ・・・・・・キール・・・」
嗚咽を押し殺し、噛締めた奥歯の間から、最愛の弟の名が漏れる。
半年前、彼の双子の弟キール・セリアンは、森で消息を絶った。
自分から姿を隠したのではない。拉致され連れ去られたのだ。近年、クラインに出没していた盗賊に・・・
その場に居合わせ、不覚にも盗賊が彼を人質にして連れ去る様を、為す術も無く見送らざるを得なかった騎士団大尉とその部下は、何としても、必ず取り戻すと約束してくれはしたが、それ以降、盗賊はなりを潜め、弟の行方は遥として知れなかった。
それからである。アイシュが悪夢に苛まれるようになったのは。
はじめは弟の安否を心痛するあまり、変調をきたしているのだと思っていた。だが次第に、これは双子としてこの世に生を受けた故の、何かの信号ではないかと思えてきた。
何よりも、アイシュは自分と弟との絆を信じていた。盗賊が何時までも人質を生かしておく筈が無い、等と言う心無い言葉に、彼は確信を持って否と答えられたし、彼の半身が地上から永久に消え去ったのなら、彼にだけは判ると断言できる。
小さい頃からそうだったのだ、共に同じ場所に怪我をしたり、何もしていないのに痛む場所があると、片割れがそこを怪我していたり。二人同時に熱を出したり。
運動神経とバランスが悪い彼が怪我をすると、弟が酷く不機嫌になる。彼の痛みの何割かを、無理やり御裾分けされるからだ。
そんな常人には無い絆が、今現在の弟の窮状を伝えて、こんな悪夢を見させているのではないだろうか?
目覚めた端から霧散していく悪夢の内容は、思い出そうとしても雲を掴むようで、ただ、絶望と恐怖と苛立ちと、全てを突き抜けて、身体すら粉々にしそうな快楽・・・
ぞっとしてアイシュは自分の肩を抱いた。
弟は今、どんな目に遭っていると言うのだろう……
「キール……」
今からでも弟を探しに飛び出していきたい。だが、既にダリスの宣戦布告を受け、緊迫状態にあるクラインでは、そんな我侭は口に出すことすら出来ない。
夜の闇に沈む部屋に、アイシュの嗚咽がかすかに流れていく。
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